くきはの余生

リタイアしてようやくのんびり暮らせるようになりました。目指すは心豊かな生活。還暦目前で患った病気のこと、日々の暮らしや趣味のことなどを綴っています。

やけた鍵・大手拓次:なんとなく、わかったような、わからないような、でも好き

 大手拓次の「やけた鍵」を読みました。詩集『藍色の蟇』の一篇です。

青空文庫で読めます。→図書カード:藍色の蟇 底本は『世界の詩28大手拓次詩集』(1965年弥生書房・刊)

f:id:kukiha-na:20181210004758p:plain

 大手拓次は1912年(明治45年)群馬県生まれの詩人です。早稲田大学に在学中から詩作をはじめ、北原白秋主宰の雑誌「朱欒(ザンボア)」などに詩を発表しました。

ライオン歯磨き本舗(現ライオン株式会社)のサラリーマンを勤めながら詩人としても活動。生涯2400近くもの詩を残して、1934年(昭和9年)に結核で亡くなりました。

生前は詩集を発表することがなく、亡くなった後に『藍色の蟇』『蛇の花嫁』などが刊行されました。 

 

  やけた鍵

         大手 拓次

 

だまつてゐてくれ、

おまへにこんなことをお願ひするのは面目ないんだ。

この焼けてさびた鍵をそつともつてゆき、

うぐひす色のしなやかな紙鑢(かみやすり)にかけて、

それからおまへの使ひなれた青砥(あをと)のうへにきずのつかないやうにおいてくれ。

べつに多分のねがひはない。

ね、さうやつてやけあとがきれいになほつたら、

またわたしの手へかへしてくれ、

それのもどるのを専念に待つてゐるのだから。

季節のすすむのがはやいので、

ついそのままにわすれてゐた。

としつきに焦(こ)げたこのちひさな鍵(かぎ)も

またつかひみちがわかるだらう。

 

この詩人の詩は難しい。言葉が難しいのではなく、詩人の心をつかむのが難しいのです。

この詩だけでなく、詩集の他作品も通してですが、そのものズバリではなくて、核心を真綿に包むようにして象徴的に表現しています。

この詩人とは比べようもありませんが、昔、私が書いていた詩もちょっとだけ感覚が似ているかなと思ったりもして、好きな詩です。

詩というのは、内容を細かく解釈する必要はなくて、「なんとなく、わかったような、わからないような、でも好き」という感覚を楽しんでも構わないと思います。

それで、この詩の「やけた鍵」の象徴しているものは何だろうということになるのですが、これは、読者が勝手に想像して楽しむところです。

私の想像では、やはり「俺の心」でしょうか。そして、焼けただれてさびついた心を磨いてくれるのは「おまへ」。

「おまへ」は、友人か、恋人か、子供、それとも愛するペットでも(笑)誰でもいいのですが、私はなんとなく「友」であるような気がしました。

ただ、詩人本人はあまり社交的ではなく、生涯独身で孤独の人だったようなのですけれど、でも、錆びた心を託せる人が、一人でもいたのなら、幸福だったのではないかと想像したりします。