くきはの余生

リタイアしてようやくのんびり暮らせるようになりました。目指すは心豊かな生活。還暦目前で患った病気のこと、日々の暮らしや趣味のことなどを綴っています。

一つのメルヘン・中原中也:秋の詩を読む

今週のお題「秋の歌」

はてなの今週のお題が「秋の歌」ということなのですが、やはり私がブログ記事を書くなら「秋の詩(うた)」であろう、ということで。

中原中也の詩集『在りし日の歌』から「一つのメルヘン」を取り上げることにしました。青空文庫で読めます→図書カード:在りし日の歌

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中原中也(1907~1937)は、詩人、翻訳家。著書に詩集『山羊の歌』『在りし日の歌』、訳詩『ランボオ詩集』などがあります。

 

 

一つのメルヘン

 

       中原中也

 

秋の夜は、はるかの彼方(かなた)に、
小石ばかりの、河原があつて、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました。

陽といつても、まるで硅石(けいせき)か何かのやうで、
非常な個体の粉末のやうで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもゐるのでした。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでゐてくつきりとした
影を落としてゐるのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……

秋の夜に詩人がイメージした、幻想的な風景なのでしょうか。

河原には、小石がたくさん敷き詰められていて、シンと静まり返っています。

そこに陽が指しているのですが、それが、「さらさら さらさら」射しているのでした。

あたりが静かだからこそ、微かな「さらさら」が聞こえるのでしょう。

陽の光を「さらさら」と表現する、言葉の選び方がすごいと感じます。

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「硅石の粉末のよう」という、さらさら射す陽は、どんな光か想像してみると、細かい粒子が陽に反射しながら、たくさん飛んでいて、光であたりが煙っているようなイメージが浮かびました。

寂光(じゃっこう)とでも言うのでしょうか、静謐な風景が感じられます。

そんな小石ばかりの河原といえば、賽の河原が思い浮かびます。

親に先立って亡くなってしまった子供が、賽の河原で石を積み塔をを作ろうとすると、地獄の鬼が壊してしまうという苦役についていると、お地蔵様が救ってくれる、という仏教説話です。

中原中也は、息子を亡くしていて、この詩が収められている詩集『在りし日の歌』は「亡き児文也の霊に捧ぐ」との副題がついています。

そのため、この詩は、亡くなった子を案じての幻想ではなかったかと、勝手に想像をして読みました。

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そうすると蝶は、亡くなった子供のあの世での姿かもしれません。

三途の川を越える前の蝶が、この静かな河原で一時、羽根を休めて、その先へと飛んで行ったのかもしれません。

時が止まったようなその光景の中に、蝶がいなくなってしまうと、時が動き出し、止まっていた川の水が「さらさら」と流れ出します。

飛んでいってしまった蝶を見送った、父親である詩人の現実の時間も、また流れ出したように感じました。