八木重吉の「雨」です。この詩は現在、青空文庫には掲載されていません。 ↛作家別作品リスト:八木 重吉
私が所持している『定本八木重吉詩集』(弥生書房)にも入っていません。私自身は確認していませんが、ぽるぶ出版『日本の詩八木重吉』には掲載されているそうです。
では、なぜ私がこの詩を知っているかというと、学生時代コーラス部に所属していたのですが、当時、男の子たちがこの曲を練習していたのを聴いて、印象深かったからです。
多田武彦男声合唱組曲集第4集『雨』の第6曲目にこの詩をもとにした歌があります。
雨
八木 重吉
雨のおとがきこえる
雨がふっていたのだ
あのおとのように
そっと
世のためにはたらいていよう
雨があがるように
しずかに死んでいこう
八木重吉の詩の中でも好きな詩のひとつです。
敬虔なキリスト教徒であり、結核を患い闘病の末に29歳という若さでこの世を去ってしまった詩人の心のありようを象徴しているような詩だと思います。
はじめてこの歌を聴いた時に、一番に思ったのは、「世のためにはたらいていよう」というところ。
世俗にまみれた私などでは、口はばったくて、とても表現することはできないですが、宗教に身を置き、病と死と向き合っている詩人の心は静謐です。
「世のため」つまり、自分のためではなく、誰かのために働いていようと、何のてらいもなく、サラリと言えてしまうのです。
ここで聞いている雨は、天(あめ)から降り注ぐ細い命の糸でしょう。
クリスチャンにとって、天=神であり、その細い糸は神様へと繋がっている、そう考えたのではないかと想像しました。
しかし詩人は雨が降るのを実際に見ているわけではありません。雨音に耳を澄まして、雨が降るようすを想像しているのです。
病床に横たわっているのか、書斎で書き物をしているのか、いずれにしても、その気配で雨が降っていること、さらには、そこに神がいることを意識しているのだろうと感じます。
八木重吉は、内村鑑三が提唱した無教会派の信仰を持っていたとされていますが、実は、亡くなった私の祖父も無教会派のキリスト教徒でした。(私はクリスチャンではありません)
祖父が亡くなった後にみつかった手記の冒頭に「死は自然である」と記していました。
大げさに身構えることなく、淡々と生きて、淡々と死を受け入れて、静かに消えて行く。それでいいのかもしれません。
それがいいのかもしれません。