くきはの余生

60歳目前に患った卵巣がんと糖尿病についての覚え書き。これからの人生を心豊かに暮らすための活動記録

心ゆたかに暮らすために、今、足りないこと

祖母は生前、夕食を終えて一休みすると、8時過ぎには寝室へ入りました。

その時、いつも決まったように『今日も一日終わった・・・』とつぶやきながら茶の間から出て行ったものでした。

f:id:kukiha-na:20201005193043j:plain

 当時の私は、「また言ってる」といつもの光景だと聞き流していたのですが、気がつけば今、私自身が言っているのに気がついて愕然としました。

 「今日も一日終わったなあ」

夕食を終えて、お風呂に入るために着替えを準備しながら、あるいは、寝るために茶の間から寝室へ向かうときに。

無意識だったので、自分がそれを言葉に出していることにも気がついていなかったのですが、つい最近自覚してしまいました。

それで、自分の気持ちを考えてみたのですが、なんだか曖昧としてはっきりとはわかりませんでした。

しみじみとした気持ち

あえて言うならば「しみじみとした気持ち」と言えるかもしれません。

「今日も一日良く生き延びられたなあ」、同時に「また一日無為に終わってしまったなあ」という両方の気持ちでしょうか。

若い頃は、寿命など考えもしませんでしたから、無尽蔵にあると思っていた「生きる」時間が、実は、残り20年、30年と数えられるほどしかないと気がついてしまったから。

一日が過ぎてしまったことが、なんとなく感慨深いような気がしているのかもしれません。

何か足りない

「今日も一日終わったなあ」には、少し空虚な気持ちも含まれているように感じます。

祖父母の介護や父の看病に必死になっていた50代の頃は、気持ちに余裕がなくて、自分のことなんか考えることもありませんでした。

でも今は、余裕があるからこそ、到達するべき目標というか、やり甲斐のようなものが無くて、物足りなさを感じています。

家族に関する悩みがなくなって、多少経済的には心配がのこるものの、なんとか暮らしていけて、詩を読んだり、小説を読んだり、庭作業をしたり、パンを焼いたり、気の向くまま好きなことをして暮らせる時期がきたというのに。

贅沢な話ですが、何が足りないんだろう。

足りないもの

考えてみるに、今の私の生活には「社会性」が不足しているかもしれません。

病気をしてからというもの、通院くらいしか外出しなくなったため、夫と妹以外の人とはめったに会いません。

夫とは家の中にいても、それぞれ別の部屋で別のことをしていて、話すのは食事の間くらい。

妹に会うのもせいぜい週に一度くらい。妹は忙しいので、5~6分くらい、要件だけ話す程度。

気軽に会えるような友達も近くにいないし、ご近所さんともほとんど顔を合わせない。

視力の関係で車の運転を自粛しているため、自由に買い物にでかけたり、美容院に行ったり自由に動けないのも、ちょっとストレスになっています。

もともとあまり社交的ではないので、家の中で独りでいることは苦痛ではないのですが、最近はたまに少し寂しいと感じることもあります。

病気をする前は、多少仕事らしいこともしていたのもあって、独りでいてもこんな気持ちになることは無かったので、これも年のせいなのでしょうか。

もう少し人と接する機会を増やした方が良さそうです。

そんなわけで、気楽に好きなことをして暮らせれば、心豊かに過ごせるかというと、それだけでは、じゅうぶんではなくて、ほどほどには他人とのコミュニケーションが必要なのではないかと思いはじめています。

 スポンサーリンク