くきはの余生

60歳目前に患った卵巣がんと糖尿病についての覚え書き。これからの人生を心豊かに暮らすための活動記録

かぎりあれば、れいの作法にをさめ奉るを・桐壺7:源氏物語8

桐壺の7回目、宮廷で嫉妬や嫌がらせを受けたすえに、病が篤くなって、桐壺の更衣はとうとう亡くなってしまいました。

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娘に先立たれた北の方(桐壺の更衣の母)は嘆き悲しみます。 

 

かぎりあれば、れいの作法にをさめ奉るを、はは北の方、「同じけぶりにのぼりなむ」と、泣き焦れ給ひて、御送りの女房の車に慕ひ乗り給ひて、をたぎといふ所に、いといかめしうその作法したるに、おはし着きたるここち、いかばかりかむありけむ。

(母)「むなしき御からを見る見る、なほおはするものと思ふがいとかひなければ、灰になり給はむを奉りて、今はなき人と、ひたぶるに思ひなりなむ」と、さかしう宣ひつれど、車よりも落ちぬべうまろび給へば、「さは思ひつかし」と、人々、もてわづらひ聞ゆ。

 

しきたりがあるので、恒例の葬儀の作法に沿って進め申し上げるものを、(桐壺の更衣の母)北の方は「同じ煙となって天へ上ってしまいたい」と、泣き焦れになって、野辺送りの女房の車に乗り込まれて、をたぎ(愛宕)という所で、たいそう厳かに葬儀の作法をしているところに、お着きになられた(北の方の)お気持ちはいかばかりであったろうか。

(母・北の方)「亡くなられたご遺体を見ては、それでもなお生きていらっしゃるものと思っても、まったく甲斐がないので、灰になられるのを見申しあげて、今はもう、亡くなった人なのだと、ただひたすらに思うようになろう」と、気丈におっしゃられたけれど、車から落ちそうなほど、取り乱しなさるのを、周りの女房たちは、「そんなことだろうと思っていた」と、手を焼かれていました。

 

 

桐壺の更衣のお葬式の場面です。

当時のしきたりでは、息子や娘が亡くなった場合、年上である親は葬儀に参列しません。

そのため、桐壺の更衣の母である北の方には乗り物が用意されていませんでした。

それでもなお、あきらめきれない母心、恥も外聞もなく、女房の車にむりやり乗り込んんで火葬を行う愛宕の地まで着いて行ったのでした。

愛宕は、桓武天皇の時に、弔いの場所と決められた地です。この時代の火葬は強い火力がなかったため、何日もかかり、たくさんの薪が必要になりました。

そのため火葬できたのは裕福な貴族などのごく一部の人だけでした。帝の寵妃であった桐壺の更衣ですから、帝からの特別の配慮もあったのでしょうね。

僧侶たちが読経する中、野辺送りの人も多かったのではないかと想像します。

そんな中で、嘆き悲しみのために、車からころがり落ちそうになるほど、北の方の取り乱すようすを、気の毒にも、また、呆れながらも、横目で見ている人もいたのではないかと思います。

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