新川和江の「記事にならない事件」を読みました。
『新川和江詩集』(ハルキ文庫)に収められている一篇です。
新川氏が37歳の時、1966年に朝日新聞に掲載された作品だそうです。
この詩は、私が小学生の頃に読んでいた少女マンガのモチーフとしても使われて。私が詩を書くようになったきっかけとも言える詩です。
きっかけについてはこちらに書いています →私が詩を書き始めたきっかけは少女マンガでした
当時はファンタジックな詩だなぁと魅かれましたが、内容は良く把握できませんでしたけれど、今になってもう一度読んでみると、なんとなくわかるような気がします。
なんと言っても、 少女が木に変容するという冒頭部分に魅了されます。
ギリシャ神話にアポロンに追いかけられたダフネーが月桂樹の木に変身したというお話もイメージしましたが、この少女が変身したのは、とある森かげに生えている木なので、月桂樹ではないかもしれませんね。
そして、青年は鳩に変身して飛び立ちます。何が起こったのか読者が戸惑っていると、後半でその理由が推測できるようになります。
「郊外電車に灯りがつくと 人はまたそそくさとにんげんを着て」また日常に戻って行くのです。
「にんげんを着て」とは恐ろしい表現ですけれど、ここで、少女が木になったり、青年が鳩になったするのがなぜなのかが理解できます。
ビジネスの街に縛り付けられた人達が、日曜日だけ人間を脱いで、本来の自分の姿に戻るのでしょう。
私も若い頃東京で通勤した経験があります。
電車への乗り降り、乗り換えなどは、いつもぎっしり人が詰まった状態で流れるままに流されて行きました。
反対方向に行こうとしても人の圧力に押されて進めないのです。
そんな時、感情を無くして、運ばれてる荷物に変わったかのような気がしたものでしたけれど、詩人が言っている「ビジネスの街」とは、そんな状態なのかなと感じます。
前半と後半に2回出てくる「電話のベルは 鳴りっぱなし」という部分の2行が日曜日から月曜日への時間の経過を表現しています。
休日が終わると、なぜか牧場の馬が1~2頭増えていることがあります。
にんげんを脱ぎ捨てたままビジネスの街に戻らない、または戻れなくなった人がいるのですね。
こうして、誰も知らない身近なところで、記事にならないような小さな事件が起こっているのかもしれません。
なんとなく、人間を脱ぎ捨てたまま本来の姿で生きる人が、うらやましいような気もしてきます。