くきはの余生

リタイアしてようやくのんびり暮らせるようになりました。目指すは心豊かな生活。還暦目前で患った病気のこと、日々の暮らしや趣味のことなどを綴っています。

寒中の木の芽・内村鑑三:淡々と生きる

内村鑑三の詩「寒中の木の芽」 を読みました。

底本・内村鑑三全集31894-1896(岩波書店)/親本・「国民之友」284(明治29年)

青空文庫で読めます。→図書カード:寒中の木の芽

内村鑑三(1861-1930)は、キリスト教の思想家、文学者。日本独特の信仰の考え方である無教会主義の提唱者です。

 

寒中の木の芽

    内村鑑三

 

春の枝に花あり

夏の枝に葉あり

 秋の枝に果あり

 冬の枝に慰なぐさめあり

 

二、

花散りて後に

 葉落ちて後に

 果失せて後に

 芽は枝に顕(あらは)る

 

三、

嗚呼(ああ)憂に沈むものよ

嗚呼不幸をかこつものよ

嗚呼冀望(きぼう)の失せしものよ

春陽の期近し

 

 四、

春の枝に花あり

夏の枝に葉あり

秋の枝に果あり

冬の枝に慰あり

 

春には花が咲き、夏には葉が生い茂り、秋には実が実り、そして、冬には春へ向けての休息がある。

 

花が咲くから、次に葉が生えそろい、葉が茂るから光を取り込んで実が育つ、休息の冬は根に命を蓄え、春になると、また花が咲く。

 

こうして、季節は巡り、人は生きて、子供から青年へ、大人から老人へと成長して行き、やがて永遠の休息の時が訪れる。

 

自然の摂理、季節も人の人生も、淡々と流れていく。

だから「憂に沈むものよ」「不幸をかこつものよ」「望(きぼう)の失せしものよ」と作者は呼びかける。

今は苦しくとも憂えることはない。行く手には春への希望が待っているのだと。

 

淡々とした言葉なのに、内側に強い意志を感じるような気がします。

作者はキリスト教徒で、指導者ということで、神様の意志を代弁しているかのような詩だと感じます。