八木重吉の「うつくしいもの」を読みました。
『定本八木重吉詩集』(弥生書房)の「秋の瞳」に収載されている一篇です。
青空文庫でも読めます。→作家別作品リスト:八木 重吉 底本は『八木重吉詩集1』(1988年ちくま文庫)
八木重吉は1898年(明治31)年生まれの詩人。高等師範学校卒業後英語教師となりました。クリスチャンで信仰に関する詩も多く書いています。結核のため1927年(昭和2年)29歳で早世しています。
うつくしいもの
八木重吉
わたしみづからのなかでもいい
わたしの外の せかいでも いい
どこか「ほんとうに 美しいもの」は ないのか
それが 敵であっても かまわない
及びがたくても よい
ただ 在るといふことが 分かりさへすれば、
ああ ひさしくも これを追ふにつかれたこころ
それが美しいかどうかは主観的なものです。私は美しいと思っても、あなたは違うかもしれません。世界中のほとんどの人が美しいと感じても、私1人はそうじゃないかもしれません。
誰もが美しいと思うような普遍的な美は、果たしてあるのかどうか、わかりません。
それでも、詩人はそれを求めたいと願っていたのでしょう。
自分の目で確かめられなくてもいい、それが、この世にあることさえわかれば、手が届かなくても、自分の敵であっても構わないというのです。
芸術をとことんまで突き詰めて行く詩人の心はそこまで求め続けているのですね。
でも、張り詰めてばかりいては心が病んでしまうような気もします。最後の一行「ああ ひさしくも これを追ふにつかれたこころ」で、私は少しホッとしました。
疲れていいのですよ。ひとすじの道をひたすら追求することは美しいことではありますが、ふと立ち止まって周りを見渡す余裕は欲しいもの。
もしかすると、詩人が意図した詩の意味とは違うかもしれませんが、そんなことを考えました。