くきはの余生

リタイアしてようやくのんびり暮らせるようになりました。目指すは心豊かな生活。還暦目前で患った病気のこと、日々の暮らしや趣味のことなどを綴っています。

令和の由来・梅花の歌三十二首序:万葉集巻第五

 令和元年の五月朔日に新天皇即位され元号改むる。時に初夏の瑞月にして、気爽けく風涼し……なんちゃって古文、お粗末さまです。

冗談はともかく、昨日4月30日に天皇陛下が退位され、今日から令和がはじまりました。

令和のはじめの日に、出典となった、万葉集巻第五 梅花の歌三十二首・序を読んでみました。 

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 万葉集は、奈良時代の末期頃に編纂されたと言われている歌集です。掲載されている歌は約4500首。

編纂者については諸説ありますが、最終的に大友家持(おおともの やかもち)によって全20巻にまとめられたものと言われています。

当時はまだ仮名文字がなかったので、日本語の発音を漢字に当てて書いた「万葉仮名」で表記されています。

 いわゆるヤンキーお兄さんたちが落書きする「四露死苦」的な表記で、昔も今も考えることは似ているのかなんと思ってみたり。

 

天平二年の正月の十三日に、師老(そちろう)の宅(いへ)に窣(あつ)まりて、宴会(うたげ)を申(の)ぶ。

時に、初春の月にして、気淑(よ)く風(やわ)らぐ。

梅は鏡前の粉(ふん)を披(ひら)く、蘭は珮後(はいご)の香を薫(くゆ)らす。

しかのみにあらず、曙(あした)の嶺(みね)に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾(かたぶ)く、夕(ゆうへ)の岫(くき)に霧結び、鳥は穀(うすもの)に封(と)ぢらえて林に迷ふ。

庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁(こがん)あり。

ここに天(あめ)を蓋(やね)にし地(つち)を坐(しきゐ)にし、膝を促(ちかづけ)觴(さかづき)を飛ばす。

 言を一室の裏に忘れ、衿(きん)を煙霞(えんか)の外に開く。

淡然(たんぜん)自ら放(ゆる)し、快然(くわいぜん)自ら足る。

もし翰苑(かんゑん)にあらずは、何をもちてか情(こころ)を攄(の)べむ。

詩に落梅の篇を紀 (しる)す、古今それ何ぞ異ならむ。

よろしく園梅を賦(ふ)して、いささかに短詠を成すべし。 

 

 言葉が難しいので、口語訳は間違っている可能性があります。なんとなくこんな感じということでご了承ください。

天平二年正月十三日に、師(そち)のご老人のお宅に集まって宴を開いた。

時は初春の麗しい月で 、空気は清らかで風はやわらかくそよいでいる。

梅は鏡の前に座す人の白粉のように白く咲いているし、蘭は匂袋の香りのように甘く匂っている。

それだけではなく、夜明け時の峰には雲がかかり、松は薄絹をまとって衣笠をさしたようだ。夕刻の山の祠には霧が湧き、鳥は霧に閉じ込められて林の中を飛び交っている。

庭には春に生まれたばかりの蝶が舞い、空には秋に渡来した雁が帰って行く。

ここで天を屋根にして、地を座所として、みんなで膝を合わせて杯を交わす。

一同みな言葉を忘れ、うっとりとして雲霞の彼方に向いて胸襟をひらいている。

心は淡然として自由であり、快然として満足している。

もしも文章で表現するのでなければ、どうやってこの心を表現できようか。

漢詩にも落梅の作品があるのだから、昔も今も違いがあるだろうか。

この園梅をお題にして、このひととき日本の歌を詠もうではないか。

 

師老の師は長官の意味で、この寒梅の宴が開かれた太宰府の長官のことです。万葉集の編者と言われる大友の家持の父親、大友旅人(おおともの たびと)が当時の太宰府の師でした。

天平二年の正月十三日は、旧暦の正月なので、新暦で言えば二月半ば頃でしょうか。春でもまだ寒そうですが、ニ太宰府、九州は暖かいので、梅は都よりも早く咲くのかもしれませんね。

令月は麗しい月というような意味ですが、別に2月を表すこともあるようです。

梅花満開。初春の麗しい景色の中で、膝突き合わせて旨い酒を酌み交わしていると、伸び伸びした気持ちになって興が乗ってきて、歌でも詠まずにはいられなくなる、というのです。

お酒が入って一同んな砕けた気分になって、少し浮かれているような宴席のようすが想像されます。