くきはの余生

リタイアしてようやくのんびり暮らせるようになりました。目指すは心豊かな生活。還暦目前で患った病気のこと、日々の暮らしや趣味のことなどを綴っています。

その年の夏、みやす所はかなき心地にわづらひて・桐壺5:源氏物語6

桐壺の5回目、今回は、桐壺の更衣は心労が重なって病を得、 実家に戻ることになります。 

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 光君が誕生してから3年が過ぎ、袴着の儀式が催されました。

帝の計らいによって、弘徽殿の女御の御子である一宮にも勝るとも劣らないほど盛大に行われたため、桐壺の更衣への風当たりはさらに強くなるのでした。

 

 

 袴着(はかまぎ/ちゃっこ)の儀は、子供にはじめて袴を着せる儀式で、男女とも3歳から7歳くらいで行いました。。現代の七五三の風習の基になった儀式です。

 

その年の夏、みやす所はかなき心地にわづらひて、まかでなむとし給ふを、いとま、さらに許させ給はず。

年頃、つねのあつしさになり給へれば、御めなれて、なほしばしこころみよ、とのみ宣はするに、日々に重り給ひて、ただ五六日のほどに、いと弱うなれば、母君なくなく奏して、まかでさせ奉り給ふ。

かかる折りにも、あるまじき恥ぢもこそ、と心づすひして、御子をばとどめ奉りて、しのびてぞ出で給ふ。

 

 

その年の夏、御息所(桐壺の更衣)は心細い気持ちから患われて、(宮中を)退出させいてただこうとされましたが、(帝は)お暇を出すことをお許しになられません。

(御息所は)長い間、いつも病がちになっていらっしゃるので、(帝は)お見慣れなさって、「なおしばらくは、様子を見なさい」と、おっしゃっているうちに、日ごとに重篤になられ、わずか5,6日のうちに、とても衰弱されて、(御息所の)母君が、(帝に)涙ながらに申し上げて退出させ申し上げました。

このような時に、あってはならない失態をしてはいけないと心遣いをして、御子(光君)は宮中にお留め申し上げたまま、ひっそりと退出なさいました。

 

 その年の夏とは、光君が3歳で袴着の義が行われた年の夏のことです。

御息所(みやすどころ/みやすんどころ)は、もともとは天皇の休息所のことを指したものでしたが、転じて、天皇の寵愛を受けた女性のこと、または、御子を産んだ女性のことを指すようになりました。

光君の母である桐壺の更衣は、心労が重なって、心弱り患われたため、里下がりを願いでましたが、帝は桐壺の更衣に執着されていて、なかなかお許しになりません。

健康な状態での退出なら、里下がりしても、また戻ってくるのがわかりますが、病を得て身体が弱っての退出ですから、もう二度と会えないかもしれないという嫌な予感が、帝を躊躇させたのでしょう。

そうこうしているうちに、桐壺の更衣はさらに弱ってしまったため、更衣の母君が、身が切られるような気持ちで帝に奏上して、ようやくお許しをもらったというわけです。

母君が無理にでも退出させようとしたのは、「かかる折りにも、あるまじき恥ぢもこそ」、宮中では帝以外は死んではいけないというタブーがあったから、更衣が宮中で亡くなってしまい、宮中を汚してはいけないという配慮があったからです。

 ここでは、桐壺の更衣の心というよりは、帝の気持ちの揺れや、 母君のつらい決断の心の内がより強く印象的に描かれているように思います。