ガブリエル・ミストラルの「パン」を読みました。
双書・20世紀の詩人『ガブリエラ・ミストラル詩集』田村さとこ・篇/訳(小沢書店)に掲載されている一篇です。
ガブリエラ・ミストラル(1889-1957)は南米チリの詩人。教育者で外交官でもあります。1945年にノーベル文学賞を受賞して「ラテンアメリカの母」と慕われている女性です。
私は最近まで存じ上げなくて、ネットでこの「パン」という詩を知って読んでみたくなり、詩集を探しました。
田村さとこ氏訳の詩集は今は絶版で書店では買えなかったのですが、古本で入手することができました。
今はまだこの「パン」という詩しか読んでいないのですが、この一編を読めただけでも、詩集を手にした甲斐があったと感じます。
私がこの詩をぜひ読みたいと望んだのは冒頭部分がきっかけでした。
「テーブルの上に置きさらされたひとつのパン
半分 焦げていて 半分 白く
てっぺんがつまみとられていて
純白の中身がのぞいている」
何気ないこれだけの描写で、それ以降の詩がどう続くのかもわからなかったのですが、魅了されました。
日本人がご飯を主食として育つように、南米の人々はパンを命の糧として育つのですね、そこには、子供の頃からの色々な思いが詰まっているのです。
「半分 焦げていて 半分 白く」焼けたバンは、かまどの火が均一でなかったためでしょう。普通の家の台所の道具は完璧とは言えなかったのでしょうけれど、母が毎日焼いてくれるなつかしいパンなのです。
「てっぺんがつまみとられている」のが、ほのぼのとして、なんだか心があたたかくなりました。
誰がつまみ食いをしたのかわかりませんが、焼きたてほかほかのパンがテーブルの上に乗っていたら、誰でもちょっと味見してみたくなります。
おそらく私の焼いたパンだったら、「なんでてっぺんを食べたのよ、端っこから食べてよね」と怒るでしょうね(笑) でも、つまみ食いする方は、そんなことにはお構いなしなんですよね。思い当たります。
テーブルの上に乗っているパンをながめることによって、詩人の思いは巡ります。母のお乳の匂い、これまで暮らしてきた土地の匂い。
この詩を書いている詩人は年取っているのだけれど、このパンと向き合うことで、幼い頃の自分、若い頃の自分と向き合っているのでしょう。
実のところ1~2回読んだだけでは深い思いまでは理解しきれないのですが、おだやかでやさしくて、軽い薄絹のベールをかけたような詩人の心が感じられます。