中原中也の「夏」を読みました。
1934年発行の詩集『山羊の詩』の一篇です。
私が持っている抜粋詩集には入っていなかったのですが、夏の詩を探していて、下記サイトでみつけました。→中原中也・全詩アーカイブ
夏
中原中也
血を吐くような 倦うさ、たゆけさ
今日の日も畑に陽は照り、麦に陽は照り
睡るがような悲しさに、み空をとおく
血を吐くような倦うさ、たゆけさ
空は燃え、畑はつづき
雲浮び、眩しく光り
今日の日も陽は炎ゆる、地は睡る
血を吐くようなせつなさに。
嵐のような心の歴史は
終焉ってしまったもののように
そこから繰れる一つの緒(いとぐち)もないもののように
燃ゆる日の彼方に睡る。
私は残る、亡骸として――
血を吐くようなせつなさかなしさ。
「血を吐くような」という表現がなにごかと目にとまりました。
倦うさ、たゆけさ、そして、せつなさ、かなしさ と言う言葉に、「血を吐くような」という強い言葉が似合わないような気がするのですが、あえてそう表現しなくてはならない詩人の気持ちがあったのでしょう。
詩の中には描かれてはいませんが、この詩を書いた心の奥には、長谷川泰子との別れがあったようです。
中原中也は17歳の時に20歳の女優長谷川泰子と同棲していましたが、友人の小林秀雄との三角関係に陥り、やがて泰子は友人の小林秀雄の許へ行ってしまいます。
そのようなことが背景になって「血を吐くような」という表現になったのでしょう。
「嵐のような心の歴史は 終焉ってしまったもののように そこから繰れる一つの緒(いとぐち)もないもののように」と、詩人は終わってしまった過去のことだと、よくわかっているのですが、それでも尚、失ってしまった愛を思い切れない、「せつなさかなしさ」なのです。
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